株式会社キャトルキャー ゴルフコース設計家 迫田耕(さこたこう)
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 Choice誌掲載 (2) 1998年7月号 Vol.104    出版元ゴルフダイジェスト社

神の大地を耕した男

Dr.A.MACKENZIEドクター・アレキサンダー・マッケンジーを理解
する上で是非とも必要なことが2つある。
 1つめは、Mackenzieの名から判るとおり彼のルー
ツがスコットランドにあるということだ。マッキン
トシュにしろマクドナルドにしろMacで始まる名前
がつけばその人のルーツはスコットランド系なのだ
彼の祖父はスコットランドで猟師だったが、父の代
に北イングランドのヨークシャーの中心地リーズの
街に移り住み医者となった。彼は2男2女の長男とし
てケンブリッジで薬学を学ぶまでリーズで育ち
カレッジ卒業後は医者になる勉強をするためロンドンに出た。
 2つめは、1899年から1902年までの南アフリカで起きたボーア戦争に軍医と
して従軍し、軍医であったはずの彼がなぜか戦略的な興味からボーア人達のカ
モフラージュ技法を研究するようになることだ。
近代的な兵器を備える統率の取れた大英帝国陸軍は圧倒的優位にたちながら
ボーア人達のゲリラ戦法に苦しめられていた。彼等の自然を利用し巧みに身を
隠す技法を研究し、土木的な摂理を加えることで彼はカモフラージュ技術を確
立し、ロンドンに帰還してから大英帝国陸軍省の研究機関のNo.2に迎えられた。
しかし彼の主張はほとんど評価されないまま、失意のなかで故郷リーズに
戻った。驚いたことに、当時研究機関内で大勢をしめていたカモフラージュ戦
法とは、巨大な布地に沢山の兵隊の絵を描き、それを天空に掲げて相手を威嚇
する案(!)だったそうだ。

 英国ゴルフ設計家協会内では、今世紀初頭のわずか4半世紀の間に、8人の男
によってゴルフ場設計の基礎が築かれたとの考えが主流である。
アメリカ人が入っていないので当然アメリカ側は違う見解を持っているだろうが、
それは私がC.H.アリスンが入っていないので不満に思うのと同じ理由だろう
8人の内訳は始めの4人がアマチュアで後の4人がゴルフプロである。

カーティン・スミス(生没年不詳)ゴルフイラストレイテッド誌の発行人
ジョン・L・ロー(1869-1929)
ハリー.S.コルト (1869-1951)
A.マッケンジー (1870-1934)
ウィリー・パークJr (1864-1925)
ハリー・バートン(1870-1937)
ジェームス・ブレ-ド(1870-1950)
J.H.テーラー (1871-1963)

これで判るとおり、1870年頃に生まれ20世紀初頭に30歳代だった人達である
何故なんだろうか?
 1850年から1870年までの20年間の英国は、英国近代史の中でも黄金期と呼ばれ
『世界の工場』として一挙に富める国となった。
その後英国は加工した製品の輸出先を確保するため植民地支配を強め、次第に
勢力を延ばしてきたアメリカ合衆国やドイツ帝国に対抗して帝国主義に傾
て行くことになる。
 当時の大都市とは銀行、商業、製鉄などで栄えたロンドン。綿織物工業やそ
れに伴う貿易、奴隷売買などで富を得たマンチェスターとリバプール一帯
羊毛製品や刃物工業のヨークシャーのリーズやシェフィールド。ウィスキー輸
出と造船業のグラスゴーなどであろう。
 商工業や貿易によってあらたに富める階層となった一部の人々は、スラム化
した大都市を逃避する場所としての郊外宅地を求めるようになってきた。これ
が田園都市運動とよばれ、その日本版が田園調布などの高級住宅地をうみだし
ていくことになった。さらに、彼等はそれまでの土地所有を基盤にした貴族階
級に比べて新進気質にあふれ、海外債権や株式への投資が盛んで情報交換の場
所としてのクラブ組織を求めていた。
それが自分達の家の傍にあればどんなに快適なことだろう。
 彼等こそがそれまでスコットランドの東海岸ぞいのリンクスでしかプレーさ
れていなかったゴルフを南下させ、更に世界的なスポーツにまで広めてゆくの
である。
しかし原則的に新興勢力で成り上がり者の彼等は、似非貴族的なスタイルをゴ
ルフに付け加えてしまった。
スコットランドでは兵士、漁師、職人、無論羊飼いも含めて誰でもゴルフを楽
しんでいたはずだが、イングランドに南下した途端に格式張ったものに変質さ
せてしまったのは残念である。
      
 1860年から開催されている全英オープンの開催地と、そのコースまたはクラ
ブの創立年度を地域別に見てみると、これらの動きがより明快になってくる
後の年号はその地で最初に全英オープンが開催された年である。また、王室と
の関係によって付けることが許されるロイヤルの称号はR.で略す事とした。

スコットランド東海岸エディンバラ近郊
セント・アンドリューズ (15C) 1873
カーヌスティー (16C) 1931
マッセルバラ (1774) 1874
ミュアフィールド (1774) 1896
※マッセルバラとミュアフィールドはジ・オナラブル・カンパニー・オブ・
エジンバラ・ゴルファーズという世界最古のゴルフクラブが場所を変えた
ものであり同じクラブと考える。
     
スコットランド西海岸グラスゴー近郊
R.トゥルーン (1878) 1923
プレストウイック (1851) 1860
ターンベリー (1906) 1977
     
アイルランド
R.ポートラッシュ (1888) 1951
     
マンチェスター&リバプール近郊
R.リザム & セント・アンズ (1886) 1926
R.リバプール ホイレーク (1869) 1897
R.バークデール (1889) 1954
     
ロンドンの東 サンドウィチ近郊
R.シンクポート (1892) 1909
R.セントジョージス (1887) 1894
プリンセス (1904) 1932

 この例で解るとおり、貴族の称号さえも金で手に入れることが可能になった
彼等は、競うようにしてR. の格式をつけはじめたのだ。
そして19世紀の末には大都市近郊のリンクスランドはほぼ開発されてしまい
今世紀に入るとゴルフコースは海岸線を離れて内陸部に建設されるように
なってきた。
 それまでは、スコットランドからプロゴルファーを連れてきてコース設計
(設計と呼んで良いかどうかは別にして)からコース管理やクラブやボール製
作まで任せていたのだが、透水性の高い砂に芝が自生するリンクスランドと違い
泥まみれの内陸にコースを建設するには、是非とも土木や農学といった自然科
学の知識が必要であり、プロゴルファーの経験則だけでは足りないことは明ら
かであった。
リンクスランドでのプロゴルファーのコース設計は、敷地を午前中に見て廻り
午後にはグリーンとティーの位置を決定するというものであったという。不都
合が指摘されればグリーンと決めた場所そのものを変え、バンカーの位置は二、
三年経ってからメンバーの同意を得て決定したそうだ。また、そうすることが
分別ある設計だと信じられていたのだ。

 1870年頃に生まれたプロゴルファー
で早くに才能を開花させた者は、高給
につられてロンドン近郊のゴルフ場の
プロとなり、あるものは新天地を求め
アメリカ大陸に渡った。前者は
1894年から20年にわたり3巨頭時代を
築いた前出のハリー・バートン
J. H. テイラー、ジェームス・ブレードらであり、後者はドナルド・ロス
(1872〜1948)を始め多くがセント・アンドリューズ近郊でゴルフを学んだ
プロだった。
スコットランドの不況の影響もあるが、彼等の習い覚えたトム・モリス親子か
ら伝わるセント・アンドリューズスタイルと呼ばれる大きくスウェーする
スウィングでは前者に勝ち目がなかった事と、新大陸ではセント・アンドリューズ
出身という肩書きが物を言ったに違いない。
そういう時代に登場したのが H.S.コルトやジョン・L・ローなどの当時のアマ
チュアゴルファー達の知識階級であった。ジョン・L・ローとコルトそれに
アリスンらは当時最強だったオックスフォード&ケンブリッジのゴルフチーム
出身で、彼等は互いに意見を交換しながら、ゴルフコース設計や著作に活躍す
るようになってきた。特にコルトはライGC(1894年開場)を皮切りに、法律の
知識を生かしたクラブ経営の手腕をも評価され、1901年から1913年まではサニ
ングデールのセクレタリーもコース設計と同時にこなしていたのである。
 マッケンジーとコルトが出会ったのは、マッケンジーの地元リーズに新設さ
れるアルウッドリーゴルフクラブ(1907年開場)の設計段階であった。このと
き既にマッケンジーは、ボーア戦争で研究したカモフラージュ技法がゴルフ
コース設計にも使える事に気付き、独自に新しいコースの構想を練っていた。
後に、マッケンジーの著作の序文を依
頼されたコルトは、その中で「アル
ウッドリー・ゴルフコースの設計につ
いて指導をする為、リーズに行くよう
依頼された私は、マッケンジー氏の家
に滞在することになった。夕食の後私
は彼の診察室に連れていかれた。そこ
は、医師としての道具の代わりにサンドバンカー、パッティンググリーンをは
じめ多くのコース写真、アルウッドリーゴルフクラブのためのたくさんの図面
やスケッチで埋もれていた。私は、真摯な探究者と出会ったのだと感じた」
と告白している。
コルトがそうであったように、その後マッケンジーもアルウッドリーのセクレ
タリーになる一方で1909年には4コースの新設コースをオープンさせるなど
精力的にコース設計を行っていった。
彼等は第一次世界大戦を挟んで1920年頃までは少なくとも表面上はパートナー
シップを結び、アリスンと共に英国内やヨーロッパのみならず世界中にゴルフ
コースを設計していった。

 コルトとマッケンジーの確執は有名であるが、ゴルフにおけるそれぞれの生
い立ちを考えれば、至極あたりまえに思えてくる。彼等はお互いの仕事の取り
合いを避けるためにパートナーシップを結んでいたに過ぎず、浪費癖のマッケ
ンジーはコルトから別会計を言い渡されていたようだ。1928年にイースト・ヘ
ンドリッドG. C. の工事で芝の移植をするか否かで揉めたのが直接の原因と伝
えられているが、本当はそのずっと前からお互いに飽き飽きしていたに違いない。
 マッケンジーに比べて13歳年下のアリスンはコルトにとって弟のようであり、
彼も最期までコルトに忠実であったことが、手紙から伺える。彼はコルトの命
により北米大陸や日本を含む極東地域に派遣されたが、楽しんでいるようであった。

彼等は、1920年に相前後して著作を発表する。マッケンジーが『ゴルフコース
設計論』、コルトとアリスンが共著で『ゴルフ設計についてのエッセイ』である。
前者は、もともとグリーンキーパーにゴルフコースの成り立ちを講義した際の
原稿を下敷きにし、加筆したものであるが、後世のゴルフ設計に大きな影響を
与えた13箇条が含まれているので紹介しよう。

1) コースはできれば9ホールずつの2つの環で構成されている事。
2) 2回のフルショットでグリーンに届くホールが大部分であり、その他、2、3の短いパー4のホールと、少なくとも4つのパー3のホールがある事。
3) グリーンとティーは近いほうが良く、グリーンから逆戻りせずにすぐ次のティーに行ける事。
しかし将来必要があればホールを延長できるように最初から柔軟性を持たせたコース設計をすべきである。
4) グリーンとフェアウェーに十分アンデュレーションがあることが望ましいが、急激なアップダウンはない事。
5) 全てのホールがそれぞれ異なる特徴を持っている事。
6) グリーンを捉えうるショットでは、極力ブラインドショットにならない事。
7) 美しい景観を持ち、人工的に造られたものであってもそれと見分けがつかない程、自然にとけこんでいる事。
8) 大胆なテーショットの見せ場もあるが非力なプレーヤーが1打
失うことを覚悟すれば、いつも他の選択肢が用意されている事。
9) 多種多様なショットを繰り出さなければ攻略できない程、変化に
むコースである事。例えば勝負を賭けた大胆なブラッシー
ョット、低く抑えたアイアンショット、すぐ止まるピッチ
ショット、足の長いランニングアプローチ等。
10) ロストボールを捜す面倒や苛立ちが全く無い事。
11) スクラッチハンディキャップ以上の技量をもつプレーヤーに
とっても、コースから常に刺激を受け続け今まで出来なかった
ショットに挑戦してみたくなる程、面白いコースである事。
12) ハンディキャップが多い人や、初心者でさえ、散々なスコアーを出しながらも楽しめるコースである事。
13) コースは、夏でも冬でも同じく良い状態に保たれている事。
グリーンとフェアウェーが一体となり、アプローチエリアもグリーンと同じように一貫性を保っている事。

 13箇条とは無論ゴルフルールの起源に範をとったものであるが、考えように
よっては『ルールの原点はR&Aだが、コース設計の原点は我にあり』と言って
いるようだ。
 この傲慢ともとれる自己顕示欲の源は、1914年に米国『カントリーライフ誌』
主催の『理想的な2ショットホールをデザインする』という設計競技で、彼が
第1位を取ったことかもしれない。

420ヤードの理想的な2ショットホールのプラン


理想のパー4
 レギュラーティーから420yard、バックレティーからだと450yardで、ティー
グラウンドから見て左側に入り組んだ砂浜がある。
その先には海があるが、潮の満干によって海岸線は刻刻と変化する。左側の
アイランド・フェアウエーを含め、フェアウエーとラフの区別はなく、大地に
波頭のようなうねりが幾筋か刻まれ、それがプレーラインと斜向しているボー
ルのランとスタンスに変化をつける。
 グリーンの右側には高さ6メートルもの大きなマウンドがあり、左側から攻
めるプレーヤーには有利だが、右側のルートを採るとグリーン上にボールを止
めることが難しくなる。さらにグリーンの左側は2つの切り立ったバンカーで
守られている。
 グリーンは中程に畝を持ち、前は左手前に、後ろは奥に下がっている。左側
から攻めるプレーヤーにとっても畝の陵線によってセミブラインドとなり
グリーン奥の旗の位置を知ることはできない。

 ここで故郷リーズで、彼が最初に造ったアルウッドリーを含む3つのコースを
紹介したい。これらのコースはリーズの中心から8km程北にある、田園都市構
想のグリーンベルトにあたる位置の高台に道路を隔てただけで隣り合っている。
否応無しに互いを意識しあい、他のコースとの差別化を計ろうとする事は
いつの時代でもあるものだ。 
 ジ・アルウッドリーGC(1907年開場)は、メンバーの大半が上流階級を自認
する人々である。初代マッケンジーから数えて11代目にあたるオナラブルセク
レタリーのRCWバンクス氏によれば「敷地の一部を宅地開発業者に売り渡した
お金で3年前にクラブハウスを立て替え、1500本もの大木を切り倒しました
基本設計に盛り込まれていた可視性が損なわれていた為です。設計はコルト氏
とマッケンジー氏の共作となっていますが、コルト氏が到着したときには
マッケンジー氏がすべてやってしまった後でした。実は、コミッティーはそれを
恐れてコルト氏を招いたのですが、彼はとても強引に自分の主張を実行し続け、
ついにコミッティーも了承せざるを得なかった。というのが本音です
と語ってくれた。
 コースレイアウトは、彼の出世作らしくオーガスタナショナルに連なる戦略
型発想もみえるが、全体的にセント・アンドリューズを強く意識したもので
ある。そうすれば彼に批判的な意見をかわせるし、誰だって最初の作品はこわ
ごわと可能性を探ってみるものなのだ。
それよりもこの時点での彼の興味はインランドコースを造る場合の効果的な排
水方法にあったと思われる。
 ムーアタウンGCのキャプテン、ビン
セント・グリーン氏は「もともとのク
ラブハウスは12番グリーンの傍に今も
ありますが、宅地化の影響と敷地の変
化にあわせてルーティングを変更しま
した。このコースはマッケンジー氏が
アルウッドリーの反省を踏まえてその
2年後に造ったもので、彼は中学校もキャプテンとしても先輩です」と言っていた
 このコースでマッケンジー氏はインランドコースの新たな可能性に気付いた
のだと思う。片流れの斜面を利用して傾斜を錯覚させる方法を繰り返し試したり
地面から浮き上がって見えるような砲台グリーンに挑戦している。
 サンドムーアGCはもともとアルウッドリーのメンバーの奥様方が気楽に(!)
プレーするために造られたものなので、開場当時(1925年)から女性の会員が
多く、いまでも家庭的な雰囲気でいつも賑わっている。
 大きな貯水池の縁に面しているが、水の使い方は古典的なリンクスコースの
影響が強く、サイプレスポイントGCのように方向性と距離のジャッジを要求す
るような大胆な方法はとられていない。

 さて彼はなぜアメリカ大陸にわたったのだろうか?「大金持ちのハリウッド
スターの為にコースを設計したかったのさ」とか「浪費癖が直らず、借金地獄
から逃げ出したんだ」とか「女性問題がこじれて居られなくなった」とか
多分どれも本当なんだろうが、なんとなくしっくりこない。是は私の憶測だが、
その当時の英国のゴルフ界において、H.S.コルト以上の評価が得られる見通し
がないと感じたからだと思う。
同時期に生まれたセント・アンドリューズのプロ達と同じ廻り合わせがスコッ
トランド人の血を引くマッケンジーにも起きていたのだ。

クロックワイズ
 彼等とマッケンジーが違うところは、地球を反対に廻って彼等よりも先にア
メリカ大陸の西海岸に行き着いたことだと思う。
ドナルド・ロスを始め多くの一画千金を狙ったゴルフプロが大西洋を北極から
見て時計廻りクロックワイズに渡ってアメリカ東海岸やカナダに本拠を構え、
そこを起点に仕事の範囲を広げようとしたのに対し、マッケンジーは反時計廻り
(アンクロックワイズ)に行軍し始めた。ボーア戦争の時に従軍した南アフリ
カの喜望峰を周り南半球を旅し、リーズ近郊から牧羊業者が多く移住したオー
ストラリアやニュージーランドを廻ってロイヤル・メルボルン(1926)やヘレタ
ウンガCC(1926)で基本設計の仕事をし、アメリカ西海岸に住みついたのは
他のどの設計家よりも早かったのだ。
彼は地球をアンクロックワイズに廻ることによって『80日間世界一周』のよう
に1日だけ徳をしたのかもしれない。

1926年(56歳)でカリフォルニアのサンタクルーズに住み始めてからの活躍は
目覚ましいものであった。
1927年にペブルビーチの改修をする一方で、サイプレスポイントGC(1928年
開場)をロバート・ハンターとJ. フレミングと共同で設計する。
1929年にR.T. ジョーンズ Jr. がこのコースをプレーしてマッケンジーの設計
手腕を高く評価し、オーガスタ・ナショナルGCの設計者として推薦したことは
ご存じの通りである。

マッケンジーバンカー
A.マッケンジーが高く評価される由縁
は、戦略設計の手法を大胆に取り入れ
たことだけではなく、そのコースの美
しさにある。なかでも特徴的な形の白
い砂を使った大きなバンカーは、カリ
ファルニアの抜けるように藍い空と
木々が織り成す深い陰影とのコントラストが鮮やかで、ゴルファーを魅了する。
この豊かな輪郭で縁どられたバンカーは、なぜこのような形にいきついたので
あろうか?
 マッケンジーの造ったバンカーでは、英国でよく行われているリベッタリン
グ(芝土を切り取った状態のまま縦にレンガのように積み重ねてバンカーの顎
を補強する方法)や枕木を並べ立てる手法(風の強い海浜では砂防砦として
一般的であった)は、まったくと言ってよいほど見かけない。
彼のバンカーは砂の面が巨大で、砂丘デューンのようなカーブを保ちながら
縁までせり上がってくることが特徴である。しかもあたかも空間を切り取った
ような形は遠くからでもその存在意義を明確に主張しているのだ。
マッケンジーのバンカーは、決してリンクスの模倣からではなく、極端に言え
ば山崩れの模倣から喚起される姿なのだ。

アンジュレーション
 一方でマッケンジーはセント・アンドリューズを中心にリンクスの研究にも
情熱を注いでいる。彼はその著作のなかでリンクスランドのアンジュレーション
についてこう書いている。
『自然に見えるアンジュレーションを作るには、砂丘がどのようにして作られ
るかを学ばなければなりません。砂丘は波のように砂を吹き上げる風によって
形造られます。 そしてそれは長い歳月の間に段々と芝生に被われていきます
そのため自然のアンジュレーションは海岸近くの波に似た形をしており、様々な
形や大きさの物がありますが、良く見ると波と波の間の窪みの方が、波頭自体
よりも広いという特徴があります』
『人工的に造られたものは、狭い窪みと広い畝になりがちですが、自然のアン
ジュレーションでは大きく広い窪みと狭い畝で構成されているはずです』

砲台グリーンの成立
 リンクスコースの場合グリーンの位置を決定する最も大きな要素は、良質な
芝の生えそろった場所を探すことだったに違いない。
しかし、水は低いところに流れていくので、周りをマウンドで囲まれた窪地に
集まりやすく、良質な青々とした芝は乾燥した夏場には窪地にしか生えなかった。
その場所をグリーンにすると必然的にグリーンはアプローチエリアからセミ
ブラインドになる事が多かった。
しかし戦略設計を表望するマッケンジーは、これを潔しとしなかった。
グリーンを高い位置に造ることによって
可視性を高め、ピンフラッグの根元まで見せ、さらにバンカーを掘った際に出
てくる土を盛りつけることによりさらにホールの印象を際立ったものにするこ
とを考え出した。
無論これには若干の土木工事と散水設備が不可欠であった。
 英国の設計家のことなら迷わずフレッド・ホートリー氏に聞いてみなくては
ならない。彼は英国ゴルフ場設計家協会の重鎮で、『コルト&カンパニー
『トリプルボギー』などの著者でもある。80歳になっても創作意欲は衰えず
2作先までの出版予定がある! 以下はホートリー氏の感じているDr. A.マッケ
ンジー像である。


私の父は、J. H. テーラーと組んでコース設計の仕
事をしていましたが、元々はグリーンキーパーだ
た人です。ですからコース設計という意味では私で
2代目息子のマーティンが跡を継いでくれましたの
で親子3代のコース設計一家ということになります
A.マッケンジーのことはたいへんな自信家だと
父から良く聞かされました。
英国内よりもアメリカに渡って評価された設計者の
一人です。ケンブリッジ大学で薬学を学んだことは
確かなのですが、医者の資格を取得したかどうかは
わかっていません。英国内では作品の多くが北イングランドのリーズ近辺に集
中していることや、自己顕示欲の強い言動で他人を傷つけることも多かったら
しく、あしざまに言う人もいることは事実です。たとえば、オーストラリアや
ニュージーランドで幾つかの著名なコースを設計したとされていますが、旅行
期間は1ヵ月ほどで、ロイヤルメルボルンなどでも1週間滞在しただけなのです
実際に工事を進め完成させたのは、アレックス・ラッセルだったのです。
面白いところだけ自分の功績にして、仕上げは人任せにするのが真の設計家と
言えるでしょうか?
A. ラッセルやロバート・ハンターがいつもしんどい役回りを演じたのです
そういう意味では、彼は常に優秀な協力者によって徳をしてきました。
 もう一つの例は、R&Aとの関係です。1924年に彼はセントアンドリューズの
オールドコースの図面を描いています。
バンカーの名前などが明記された当時としては画期的なもので、現在でも良く
使われています。彼は英国陸軍でカモフラージュ技法を教えたぐらいですから、
航空写真や測量隊を使って描かせたものでしょう。彼はその功績によって
R&Aのメンバーになったのだと思っています。
つまり彼は、そういう性格の人なのです。
 人物的な評価はさまざまでしょうが、彼の造ったコースがその後の近代ゴル
フ設計の金字塔であることは間違いのないところです。アメリカ、オーストラ
リア、ヨーロッパと世界中に散らばっているマッケンジーコースの会員が、毎
年持ち回りで一箇所に集まりコンペを開くマッケンジーソサイアティーという
ものがあります。欧州ではコルトカップというのがありますが、他にあまり例
がありませんし、設計家冥利に尽きる話だと思います。
 彼の時代のアメリカはヒッコリーシャフトからスチールシャフトへの転換期
にありました。フェザリーボールで180yard、1880年からのガッティーの時代
で200yard、1900年からのラバーコアボールで220yard、1930年からのスチール
シャフトの時代になってやっと240yard位の飛距離が得られたと考えられますし
キャリーとランの割合も変化してきていますから、オーガスタナショナルなど
全長だけでなく、バンカーの位置やグリーン周りなどに改修を加えることは
必要なことです。
 唯、あまりキャリーボールにだけ頼ってゴルフを組み立ててゆくと、マッケ
ンジー氏の造った豊かなアンジュレーションに翻弄される結果となると思います。
ゴルフは本来色々の条件のもとで多様な技術を要求するスポーツなのですから。

最後に彼自身はクラブコミッティーをどのように感じていたのだろうか。
『ある有名なゴルフクラブがゴルフコースを作るにあたって、コミッティーが
自分たちでレイアウトを決めると宣言したという話を聞いたことがあります
ゴルフ設計家がアベレージゴルファーにとってコースを難しくしすぎるのを恐
れてのことだといいます。現代のゴルフ設計家は、正にそのようなことをしな
いようにしており、初心者やハンディキャップの多いプレーヤーに最も同情的
な配慮を示すと同時に、すべての種類とコンディションのプレーヤーにとって
も面白いコースを作ろうとしているのです』
『スクラッチプレーヤーやハンディキャップが3とか4とか8の人で構成された
平均的なコミッティーがレイアウトしたコースの結果がどんなものであるかは
想像に難くないでしょう。彼等のほとんどは(多分無意識のうちに)自分達自
身がつかまりそうなハザードを作るのを嫌いますが、ハンディキャップ24の哀
れな下手くそのことまでは考えても仕方ないという意見には、全く異議を唱え
ません。最終的には海のものとも山のものともつかない物ができ上がるのです』
 彼自身の名誉のために付け加えれば、彼のハンディキャップは14だっだそう
である。