株式会社キャトルキャー ゴルフコース設計家 迫田耕(さこたこう)
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 Choice誌掲載 (3) 2000年1月号 Vol.113    出版元ゴルフダイジェスト社

ドナルド・ロスと魂の故郷 R.ドーノック
孤高の地位を保つ北の弓

 世紀末を迎え、世界のベスト100コースなどが良く話題になるが、必ず登場
してくる辺境のゴルフコースがある。ゴルフの故郷スコットランドの中でセン
ト・アンドリュースやカヌスティーやミュアフィールドの東海岸、ツゥルーン
やタンベリーやプレストウィックの西海岸を2大山脈とすれば、独立峰のよう
に北にそびえるのがロイヤル・ドーノックである。
 1980年の春、ASGCA米国ゴルフ場設計家協会のメンバー達は彼等の生みの
親であるドナルド・ロスの魂に触れようと此処を訪れた。ロスといえば、今年
の全米オープンの舞台となったパインハーストNo.2を心血を注いで造った設計
家として知られている。アメリカゴルフ設計の初期の大御所的存在で、彼の作
品は全米に400とも500とも言われる。

 ロイヤルドーノックは、スッコトラ
ンド北部、ネス湖の北端にあるインバ
ネスより更に北上すること40km。英国
を兎の形になぞらえると兎の耳の付け
根の部分に位置する。この世界で有数
のリンクスでは17世紀初頭からゴルフ
がプレーされていた記録がある。最古
のセント・アンドリュースでさえ16世紀の半ばごろの記録からだから随分古い。
ゴルフクラブが組織されたのは1877年で、当時は9ホールであった。その後
トム・モリスがその9ホールをレイアウトし直し、今世紀に入ってガッティー
ボールからラバーコアのボールに時代が移り、その飛距離に見合うように支配
人のサザーランドが改修を繰り返した。当時において英国内で5本の指にはい
る長いコースであったと言う。1906年からロイヤルの称号を与えられていて
現在の名誉会員には先日結婚したアンドリュー王子やプロゴルファーのトム
ワトソン、ベン・クレンショーなども名を連らねている。

 この南北に伸びるリンクスは、全体が西側の高い台地を含め弓の形をしている。
現在のホールで言えば、3番のフェアウエーの途中までと7番と8番の半分
さらに17、18番が台地の上にレイアウトされている。このレイアウトがコース
にドラマチックな変化を与えている。しかもこのハリエニシダに縁取られた壮
大なコースのパノラマが、遠路はるばるこの地を訪れたゴルファーにとって何
よりのご馳走であることに疑いをはさむ余地はない。
 更にセント・アンドリュースと逆に時計廻りのレイアウトは、大多数のスラ
イサーにとって安心材料になるかもしれない。レイアウト自体がスライスを
コース中央へと押し戻してくれるからだ。もっともフェアウエーの右サイドは
多くの場合、小形のポットバンカーかヘビーラフが待ち構えているが、プレー
不可能ではないはずだ。

 宙に浮かんだように見える2番Par3も素晴しいが、3番のフェアウエーが右に
傾きながら落ちてゆき、その先にアンジュレーション豊かなリンクスが現われ
た時の驚きは、万艦色のコース料理を一度に食卓に並べたような豪華さだ
また、6番のショートホールを終え7番のティーに向かう間の登り坂も、思わず
何度も振り返ってしまう程見事な眺めである台地の上に設けられた7番を終え、
8番のティーに立つとフェアウエーが再び右に落ちてゆく、その先に広がる
眺望は今度は空と海を繋ぐ細い海岸を主体にしたものだ。9番はすぐ傍にまで
海岸が迫っていて潮騒が聞こえる。カミング・インに入ると突然、風が読めな
くなった。4m程の巨大なデューンが風を遮り、コース中を風が激しく回ってい
るのだ。高い球を打とうものなら何処かへ際限なく流されてしまう。16番のこ
のコースで唯一の激しい登りを過ぎると台地の上の17番18番が待っているのだ。
 この台地による高低差を利用した
浮遊感と場面展開の多様さがロイヤル・
ドーノックの豪華な魅力である。




サザーランドのキドニー

 ドーノックの町(とは言ってもメインストリートが400ヤード程の閑村)の
裏通りで1872年ドナルド・ジェームス・ロスは2人兄弟の長男として生まれた
父のムンドー・ロスは大工の下で働く石工であったらしい。ロスを紹介したア
メリカの資料では、『彼はドーノックでゴルフを覚えた後、セントアンドリュース
のトム・モリスのもとでグリーンキーピングやクラブ製作を学び、アメリカ東
海岸に渡った時にはポケットに2ドルしか残っていないような状態だったが
持ち前の誠実さと勤勉さで努力した。数年後にパインハーストに居を構えると
トーナメントプロ、レッスンプロ、グリーンキーパー、コース設計家として
八面六飛の活躍をしながら遂にアメリカゴルフ設計家協会の礎を築き上げた
代表作はパインハーストNo.2というアメリカンドリームを絵に描いたような
サクセスストーリー的な説明が多い。間違った記述はないし、客観的事実を並
べてある意図の基に繋げていけばこのような表現をする事も可能ではある。

 ドーノックは開場当時からその美しさと可能性は高く評価されていたが、同
時に鉄道の駅から遠く集客力に欠けることも指摘されていた。
リンクスコースといえども地元のゴルファーに加えて休暇を過ごす旅行客の需
要も満たす必要があったのだ。セント・アンドリュースやプレストウイックな
どの例を見るまでもなく、交通機関の主流が自動車になるまでの間、鉄道路線
とゴルフコースは切っても切れない関係にあった。
そういう訳で、開場当時の支配人は半ば開発を断念するように全ての業務と可
能性を若いジョン・サザーランドに託したのだった。
彼はその後50年以上にわたってドーノックのクラブ組織とコース改修を指揮した
12番ホールは彼の名前が付いているし、18番にある双子バンカーは“サザーランドの
キドニー(腎臓)”と呼ばれている。
 彼が支配人になって間もなく、ドナ
ルドとアレックという兄弟がゴルフ場
の下働きとして働き始めた。サザーラ
ドは彼等をとても可愛がり、兄の
ドナルドをセント・アンドリュースのトムモリスの基へ丁稚奉公に出した
ドーノックにもグリーンキーパーや
ゴルフクラブを修理できるプロゴルファーが必要になってきたからである。

セント・アンドリュース一派

 ロスがセント・アンドリュースで修行していた時代のゴルフは、イギリス各
地でゴルフブームが起き、それに伴って実力のあるプロが続々と出現してきた
時代でもあった。
つまりセント・アンドリュースのトム・モリスを始めアンドリュー・カカルディー
などの一派やマッセルバラのウイリー一家など、スコットランド東海岸旧勢力
の技術的な優位性が揺らいできた時期であった。
 当時のセント・アンドリュース一派のゴルフスウィングは、大きく右に
スウェーしながら担ぎ上げたクラブを、体ごと球にぶつけるようなものだった
らしい。激しいオープンスタンスと右手までパームで握るベースボールグリッ
プで、今で言う低いパンチショットを連発していたことだろう。この場合何よ
りも重要なのは野球のグローブのように大きくて丈夫な手とリストであったと
言う。
 スコットランド東海岸の古典的なゴルフプロは、コース管理からクラブ製作、
倶楽部メンバーに対するレッスンまで全部こなしていた。しかしプレーだけが
上手なプロが出現し始めた結果、プロゴルファーの職種が分化し、コース管理
やレッスンを主体にする倶楽部プロとすぐれたプレー技術を武器にコース設計
までこなす有名プロとに分かれていった。またこの時代からプロとアマチュア
の技術差が大きくなったのだ。3巨頭の時代の到来である。
 南のハリー・バートン、北のジェームス・ブレッド、西のJ.H.テーラーの
3人は19世紀末から四半世紀わたりゴルフ界に君臨し続けた。彼等は The Open
をはじめ英国各地のエキビディションマッチに出場し栄誉と名声を得ることに
なる。
特に英国領ジャージー島出身のハリー・バートンはオーバーラッピンググリッ
プを開発し、軽やかなリズムで飛距離を伸ばし、セント・アンドリュース派な
どの古典的なスウィングをするプロ達を震感とさせたに違いない。
 数年間のセント・アンドリュースで
の修行の後、ドナルド・ロスがドー
ノックに帰ってきたのは1893年であっ
た。彼はサザーランドの期待どおり
クラブ製作などの仕事を弟のアレック
と始めたが、突然アメリカに渡ってし
まう。多分彼は、自分の習い覚えたゴ
ルフは既に英国内では時代遅れになりつつあり、クラブ製作やコース管理をす
るだけの倶楽部プロでは飽き足らないと思ったことだろう。
 実際この時期、スコットランドでゴルフを習い覚えた者の多くが、新天地ア
メリカに渡っている。輸送機関の発達によってヨーロッパ大陸から安い小麦が
輸入され始め、今まで細々と小麦生産で生計を立てていたスコットランド全体
が大不況に陥っていた事と、未だ階級制度が無い国(つまりは早いもの勝ち
の一画千金を狙った話が彼等を惹き付けたのだ。
 ドナルドとアレックのロス兄弟もまた、計らずも自分達に眼をかけてくれた
ドーノックの支配人サザーランドの期待を裏切ってしまったのだ。

デザイナーラベル

 ボストンに着いた彼は、暫くして
マサチューセッツ州のオークリーCCに
職を得、2年後にノースキャロライナ
州のパインハースト・リゾートに終の
住処を見つけ、そこでプロとして勤め
始めた。そしてすぐに後世まで語り継がれるNo.2を造りはじめたのだ。この
希代の名作は1903年に原形はできたが、1935年までロス自身によって改修が繰
り返され、熟し完成されてゆくのである。
現在のパインハースト・リゾート・コンプレックスにはNo.1からNo.8までのゴ
ルフコースがあり、一大リゾートとなっているが、そこにNo.2の名声が果たし
た役割は計り知れない。
 ロス兄弟は渡米当初はトーナメントプロとして活躍していた。全米南北対抗
戦で兄ドナルドが3回、弟のアレックが5回優勝しているし、アレックは1907年
の全米オープンの覇者でもあるのだ。
しかし、その栄光も英国から最新のスウィングを身に付けた強者がアメリカに
渡ってきたり、米国内からもゴルフ好きの若者が育ってくるにつれ陰りが見え
てきた。
ロスの自叙伝によれば、彼は1910年頃には既にゴルフ場建設にのめり込んでい
たらしい。
また彼はアシスタントに才能がある若者を集めて、パートナーと称し、各地の
仕事を分担させることで巨大なゴルフ場建設集団を組織した。
その結果、1925年頃のベン・ホーガンとジーン・サラゼンが千ドルの賞金をめ
ぐって死闘を繰り広げている時代に、3千人の社員と3万ドルの収入を得ていた。
彼はまさしくゴルフをビジネスとして捉えたのだ。
 彼の名前は商標であり、コース設計だけでなくゴルフクラブ、カレンダー
芝の種の広告などありとあらゆるゴルフ関連事業に登場した。
 この様に彼が設計したと称されているコースも、大半は彼個人の作品ではな
いし、彼の死後半世紀の間に殆どの作品が改修されてしまっているので、彼の
設計したままの姿を留めているコースは数少ない。一般的に言われている設計
上の特徴は、次の4つである。

1 砲台饅頭型のグリーンが多い

2 バンカーに切り立った顎は造ら
  ない。

3 グリーンへの花道が必ず開けて
  いる。

4 グリーン奥には決してバンカー
  を造らない。

 今年のパインハーストNo.2で行われた全米オープンをご覧になっていた方は、
現代の優秀な技術を持つプロ達でさえもグリーン廻りのアプローチで手こずって
いたのを、覚えていらっしゃると思う。彼個人の設計は、レイアウトの巧妙さ
以上にアプローチエリアでのデリケートなアンジュレーションに特徴があるのだ。
 一つには彼自身のゴルフ技術がセント・アンドリュース派の低いパンチショ
を基本にしていただろう事。つまりグリーンへのアプローチは方向性の良い
ランニングショットを多用していた事に起因する。
 もう一つは彼がゴルフ設計を始めた頃に彼が持っていた知識は、トム・モリス
以来のリンクスコースでのコース管理技術であった事。
つまり透水性の高い砂地のリンクスでは雨水が地下にどんどん浸透してゆくの
に対し、透水性の低い内陸のコースでは、グリーンの傾斜をきつくして表面排
水するしか彼には方法がなかったのだ。
砲台饅頭型グリーンにすれば、グリーン以外から水は流れ込まず、グリーンに
降った雨も周囲に流れてくれる。更にグリーンが浮き上がって見える効果もあ
るのだ。
 公平に言えばドナルド・ロスがコース設計をしていた時代には現代のような
優秀な芝刈り機はなかった。多分刈高が7〜8mm現在のカラーの部分位だった
だろう。その刈り高でちょうど良いアンジュレーションのままグリーンを4mm
以下で刈ったとしたらプロでも悲鳴を上げる位速くなるのはあたりまえのこと
なのだ。
パインハーストNo.2はドナルド・ロスが心血を注いで造った名作ゆえに、誰も
彼の造ったアンジュレーションに手を付けられなかった。その結果、現代の
トーナメントレベルから見ても極端に難しいアプローチがのこってしまったのだ。
 現在ではグリーンの床はUSGA方式と
呼ばれる砂地に肋骨排水管を備えたも
のに改良されているが、アンジュレー
ションに大きな変更は加えられていな
い。ドナルド・ロスがゴルフ界のスー
パースターになった1910年代頃は、ゴ
ルフ設計にも変革期が訪れていた。
英国で今世紀の初頭から育まれてきた知識人階級による設計手法が次第に評価
され、H.S.コルトやアリスター・マッケンジー、そして日本にもやってきた
C.H.アリソンらが競うようにアメリカに進出してきたのだ。
彼等はリンクスコースの分析を基にバンカーやハザードの位置を分類し、ペナ
ルタイプ(科罰型)とかヒロイックタイプ(英雄型)とかストラティジック
タイプ(戦略型)などと呼び始めた。
更に自然科学や法律の知識などを活かしてインランド(内陸)にコースを造り、
新たなゴルフの可能性として脚光を浴びてきつつあった。彼等は米国上陸に際し、
新聞や雑誌などのメディアに意見広告を載せ、啓蒙活動を行う一方で、アメリ
カの風土に刺激された独創的な作品を造り始めていった。
その後、彼等に呼応するように米国内からもフィラデルフィア派と呼ばれる設
計家群が育っていくのである。

ドーノックの夏

さて、ロイヤル・ドーノックに話を戻すと、アメリカに渡って“コース設計の父”
までいわれるドナルド・J・ロスの残像を現在のコースから見いだすことは難しい。
コースはサザーランドが手塩にかけて育て上げたものだし、ロスはこの地を
百年も前に巣立っていったのだ。
北の果ての小さな閑村に変わらず残っているものは、唯大地の呼吸のような風
だけである。
 それは低く垂れ込めた雲間から水平に吹き込んできたかと思うと、台地にぶ
つかって四方に渦を巻く。風が台地に届いた瞬間、息が詰まりそうになるほど
胸が圧迫され、次の瞬間は空気を求めて肩を怒らせている自分を発見するのだ。
しばらくの間、風との間合いを計りながらたたずんでいると、膝まであるフェ
スキュー芝の穂先が風の地図を描いている事に気付くようになる。
『風の姿は見えなくても大地の呼吸は関知できるかもしれない』 そう思って
もう一度遥かな水平線に眼をやると、灰色の雲よりも鉛色の海の方がほんの少
し明るい色をしている。その瞬間、ドナルド・ロスの悲しみと悔しさが解った
ような気がした。
 貧しい村の裏通りで育ち希望に溢れてゴルフの都まで修行に行ったのに既に
時代が変わってしまっていた。自分を育ててくれた恩人を裏切ってまでたどり着い
た新天地でも、プレー技術も設計でも後から来た者に追い立てられ続けたのだ。
人は彼のことを成功者として記憶するだろう。しかし彼自身はサザーランドと
ドーノックを欺いた自分を決して許すことはなかったに違いない。その証拠に
彼はゴルフ界のスーパースターになった後もパインハーストに一生住み続け
No.2の改造に固執し続けた。それが朴訥なスコッツマンの出来る唯一のけじめ
だったのだ。
彼は、そして彼を育んだドーノックは、そういうコースであり続けたのだ