欧米のゴルフコースと日本のそれを較べる時にいつも感じる事だが、最終的に
プレーする人達の人種や民族性の違いに行き着いてしまう。狩猟民族と農耕民族
の違いといえば分かりやすいのかもしれない。
我々農耕民族が、初めて英国の古いコースに行く場合を考えると、プレー速度
の違いとハーフターン休憩の短さで、途惑う人が多いようだ。端的に言えば、同じ
仕事をしても、狩猟民族は獲物を狙うためか、速度×力という原理にしたがい
行動するので、長い年月の間に敏速果敢な行動様式が身についたように思う。
一方、農耕民族は収穫量を上げるために、仕事の質×就労時間という概念に
沿って行動し、長時間労働や勤勉さを身につけたように思う。結果的に、娯楽
であるはずのゴルフでさえも、異なった発達をしたのではないだろうか?
別の例だが、グリーンまでの残りの距離表示など、狩猟民族は風向きと距離を
勘案する事こそが、ゴルフの楽しみだと言い張って、目測による距離感を重視し、
未だに距離表示の存在に否定的な人も多い。これも、狩猟民族が獲物に矢を
射掛ける時の本能にも似た行為の、ゴルフを通した反復練習かもしれない。
さて話をゴルフコースに戻すと、緯度の高い地域に住む欧米人にとって、芝は
蒼い物と言う先入観があるから、日本のコースの冬場における高麗芝や野芝の
枯れた色は、侘しく貧相に見えるだろうし、青々とした芝に張り替えたく思う
に違いない。
しかし農耕民族の我々にとって、黄金色に変色した芝は、豊穣な実りの季節を
連想させる色でもある。冷夏と長雨に祟られ、10年ぶりの米の不作が伝えられた
今年、重そうに頭を垂れた稲穂を見て、植物の健気な努力をいとおしく感じた。
自分は枯れても、なお子孫を残そうとする母性は、献身を通り越して気高くさえ
感じる。このような農耕民族独特の美意識の為か、日本では枯れた芝の上での
ゴルフは疑問視されてこなかった。
しかし、現実的に冬のゴルフでは、高く刈り止めされたラフの方が、芝が短く
地面に直接球が乗っているようなフェアウエーよりも簡単なので、良いショットが
報われずアンフェア(不公平)であるし、本来ハザードとラフで構成されるべき
戦略性も、芝の厚みの差による打ち易さの逆転現象によって、根底から覆されて
いるのは、戦略設計以前の問題である。
冒頭に掲げた大原御宿の冬景色は、故井上誠一氏の純日本的な美意識の
結晶だと思うが、氏はもう一方で、高麗グリーンとベントグリーンの、2グリーン
システムを一般化させた事も忘れてはならない。近年、このシステムの是非が
議論されるようになり、ベント芝の1グリーンに改修するコースも多い。
しかし、改造には莫大な資金と、景色に馴染むまでの長い時間が必要で、安易に
取り組むべきではない。
2グリーンシステムには歴史的な必然もあり、1グリーンでは得られない利点
さえ存在する。例えば、全く違った性質のハザードを、グリーン毎に組み合わせる
事が可能なので、季節や曜日によって使い分ければコースの単調さを補い、二倍
楽しめるかもしれない。また、少し距離をおいて互い違いにグリーンを配せば、
その日の使用グリーンによってベストルートが異なるから結果的に戦略型に
なり、さらにドッグレッグと組み合わせれば、その設計要素を強調した事になる。
1グリーンと2グリーンが混在するコースがあっても不思議ではないし、定型に
押し込む必要性など何処にもないはずだ。
日本には日本独特のスタイルがあり、それは現在の世界標準からは、少し外れ
ているのかもしれない。しかし、欧米の有名なコースのみが我々の目指す努力
目標ではない事は明らかだし、国情に合った展開を模索していく努力も必要だ。
はっきり言えることは、倶楽部毎に可能性とそれに伴う痛みを吟味し、ゴルフ
ゲームの多様性を受け入れた上で、決断すべきだと言う事だ。
高麗、ベントの2グリーンを1グリーンに改造するという決定も、改造工事中の
長期間の不便を考えて改修しないという決定も、共に素晴らしい判断だと思う。
さらに、プレーヤーの高麗離れと利便性を考えてベントの2グリーンに改修する
という決定さえも現実的なものである。どの決定も、それが充分な議論の末の
物であれば、個性豊かな倶楽部の歴史になると確信している。
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