最近まで建築科の学生の努力目標は、ル・コルビュジェ、ミース・ファン・デル・ローエ、アルバ・アールト、
フランク・ロイド・ライトら近代建築の巨匠達だった。中でも、旧帝国ホテル造営のために1919年に米国から
来日したライトや、その助手として来日したレイモンドのシンパは多かったようだ。
ゴルフ界でのハリー.S.コルト(1869年生れ)とCHアリソン(1882年生れ)の師弟関係と、ほぼ同時期同世代の、
日本を舞台にした建築界でのライト(1867〜1959)と
レイモンド(1888〜1976)の関係も興味深い。チェコ人の
アントニン・レイモンドは、ライト帰国後も大戦を挟んで長く日本に滞在し、レイモンド
建築設計事務所を主宰。多くのモダニズムに溢れた作品を発表する一方、前川
國男や吉村順三ら戦後の日本建築を牽引する優秀な弟子達を育てた。
西欧建築文化を日本に導入したのは、明治時代の英国人設計家コンドル(1852〜
1920)が最初だろうが、民間建築レベルではレイモンドや米国の宣教師だった
ヴォーリス(1880〜1964)の時代まで待たなければならなかったのだ。レイモンド氏
やヴォーリス氏本人はゴルフを嗜まなかったが、現存するクラブハウスを見る限り、
欧米の倶楽部組織に範を採った小規模で居心地の良い物ばかりでほっとする。
本来クラブハウスは、不特的多数が出入りする公共建築と異なり、同好の士が
集う家族的な雰囲気を大切にする場所であり、家具を移動させて祝賀行事にも
対応できるスペースが確保できれば充分である。もっと重要なのは、メンバー同士
の砕けたやり取りに最適な距離感なのだ。
暖炉脇のコーナーや一寸したアルコーブで声を潜めた内緒話をしたり、戸外に
テーブルを出して薄暮の風を楽しんだり、気心の知れたスタッフとの会釈をしたり、
そんな日常的な行動が仰々しくなくできる建物が気持ちよい。レイモンド氏の
作品は、節度を保った倶楽部ライフを導く仕掛けが随所に隠されており、それを
使いこなす事がプライベート倶楽部の会員の誇りでもある。
また、レイモンド建築の特徴とも言える小径丸太を使った天井の小屋組みは、日本古来の公共建築である神社仏閣の木組みからではなく、木造町屋を雛形にして彼流に発展させた結果であり、同時に室内に居ながら半戸外を味わえるようにとの建築家の配慮だったのだ。その後のクラブハウス建築のボタンの掛け違えは、メンバーの生い立ちを表す格式と、公共建築に不可欠な威厳とを混同してしまったところだったのだ。
ゴルフの大衆化に伴ってクラブハウスは用途が変わり、巨大なフロントホールや
コンペルームが登場したが、ゴルファーはゴルフプレーだけを目的に足を運ぶ
わけではない。もう一歩踏み込んで文化を読み取る見識を持って欲しいものだ。
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