株式会社キャトルキャー ゴルフコース設計家 迫田耕(さこたこう)
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 Choice誌掲載 (1) 1996年11月号 Vol.95    出版元ゴルフダイジェスト社

「南スコットランド巡礼」
忘れ去られた 連鎖の地
リンクスとは海岸沿いのゴルフコースの意味だけでなく、連鎖し連結していると
いう意味でもある。スコットランド西海岸は、ゴルフとウィスキーの出合った
場所であり、またゴルフというスポーツが世界に広まるきっかけをつくった土地
でもある。

 私のパトロンの一人が石原さんを紹介してくれてから未だ1年ほどだが、何の巡りあわせか気がつくと一緒にスコットランを旅行することになっていた。
彼は日比谷の帝国ホテルのバーマンでウィスキーに限らず酒には詳しい
つまりウィスキーに関する記述は彼のものである。
 マクリハニッシュゴルフクラブとスプリングバンク蒸留所はいずれもス
ランド南西部キンタイア半島の南端に位置している。グラスゴーから海沿いの道
(英国内では絶景と評されている)を100マイル程、エジンバラから半日の行程で
着いたキャンベルタウンは、人口6000程の小さな港町であった。400ヤードにも
満たぬメインストリートでさえ人影もまばらで、カモメが飛び交う最果ての地
という印象だ。
やっと見つけた蒸留所は、表通りに面した教会の路地を入った右側にひっそりとたたずんでいた。蒸留所と聞けば巨大な装置産業を連想してしまうが、此処は何と小さな
ファクトリーなのか。 明後日の見学を予約して引き上げることにした。
明日はマクリハニッシュ
ゴルフクラブで打ちのめされるに決まっているからだ。

 キャンベルタウンから西へ20分、南北に砂浜を持つマクリハニッシュベイの
南端にクラブハウスは建っていた。道を挟んで海側がコースでスタート小屋や
プロショップもコース側にあるエントランスの芝生にシンボルマークオイスター
キャッチャー(ゆりかもめ)を配したクラブ旗がはためいているが、その端部は
風で千切れ飛んでいて、風の強さと我々のゴルフを暗示しているようだ。
 たいていのリンクスがそうであるようにマクリハニッシュもゴーイングアウトカミングインの単一ループであるが、デューン(砂丘)の懐が深いためにホールの向きが適度に変わり風の判断を一層厄介にさせている
海からの風はほとんど南西から吹き付けるので南北にレイアウトされたコース
斜めに吹き抜けさらに風によってできたであろうマウンド群がレーライン
に対して斜向しながら自在にうねってゆくこの粗暴とも言えるマウンドと
その構成の複雑さがマクリハニッシュの持ち味であり高く評価されてきた所でも
ある人間の目線の高さなどたかだか1.5mぐらいのものだが自然の大きなう
その3倍以上もあり細かいうねりは1m内外でさざ波のようにフェアウェーを
揺らし、ティーグラウンドに立っただけで船酔いしそうである。しかし今は
リンクス特有の不可視性を議論している場合ではない。我々はピンフラッグを
しならせている風とも30cmにも成長し穂さえ出している麦の仲間の芝とも
友好関係を保たなければならないのだバンカーの数は多くないがすべて小さく
深く切り立った顎を持っている広いサンドピットを持つ平板なバンカーは、
風の強いリンクスでは存在しえない。風によって砂が吹き飛ばされてしまい
やがては草で覆われてマウンドを
際立たせる窪みへと進化してゆくだけだ
グラスバンカーの原型である。

 マクリハニッシュゴルフクラブは1976年の開場当時キンタイア半島の対岸にあるプレストウィックゴルフクラブに範をとり12ホールズであったが、トムモリスによって3年後には18ホールズに改められている。彼はいきつけのパブの目の前(現在の
位置)に
一番のティーグラウンドを移す事を主張したと伝えられている
当時は有志が集まってゴルフクラブの創立を決議すると数日後にはメンバー
大半がコースを回っていたつまりこの間クラブコミティーがやり遂げた仕事と
いえば農民の了解を得て用地を確保しグリーンとティーグラウンドの位置を
決め
フェアウェーなどの芝の刈り込みをさせた事ぐらいでスタート小屋
クラブハウスは会員が増えて収拾がつかなくなるまでは既存のパブやホテルに
よって代用されていた。無論土木工事などは行わず不都合がメンバーから指摘
されればグリーンの位置等レイアウトそのものを変更して対処していた。
このようなコースの成り立ちは理想的なものではあるがコースの難易度が
メンバーの技量によって左右されやすい。マリハニッシュゴルフクラブメンバー
の英知と腕前はたいしたものである。
 我々のゴルフといえば旅行に持ていったクラブの本数と同じぐらい球を
コースに忘れてきたと書けば察して下さると思う。

 スプリングバンクディスティラリー(蒸留所)を再訪する前にウィスキーの基本知識について整理しておきたい。蒸留酒の一種であるウィスキーは、モルトウィスキー(ポットスチルで蒸留)グレインウィスキー(パテントスチルで蒸留)ブレンデッドウィスキー(上記2種を混合)の3種に製法よりわけられる。本稿で扱う蒸留所はモルトウィスキー
だけである。
 確かにウイスキーの生産地英国アメリカカナダアイルランド日本が
主たる地域となっている。規模、生産量、消費量で今やスコットランド(英国)が、
世界一とは言えない。しかし、伝統的製法を保持し個性的な質を堅持するのは、
スコットランドの他ない。
 スコットランドの蒸留所は大きく5つの地域に分けられる。
ハイランド、ローランド、スペイサイド、アイランズ、キャンベルタウン。
そのうちアイランズはスカイ島ジュラ島、アイレイ島などの島々の意である。
ハイランドは、おおむねグラスゴーとエジンバラをむすぶ線より北の地域、南は
ローランド。ハイランドの内でも北海に注ぐスペイ川流域を特にスペイサイドと
呼ぶ。キャンベルタウンは独立していると考えられるその理由は6世紀には
すでに蒸留技術がケルト人により伝えられ、他の地域より早くウィスキー生産が
開始されていた事と100年前の18世紀末には30ケ所にものぼる蒸留所がひしめき
合い今日のスペイサイドにも匹敵する栄華を誇っていたからである現在スコ
ランドで操業している蒸留所は100ヵ所を少し超える程度であることを考えると
いかに大きなウィスキー生産地であったか想像できよう。

 湖からの豊富で清澄な水キンタイア半島の豊穣な大麦海上輸送に有利な港比較的に安定した天候
適度に湿った空気いずれも恵まれた諸条件なのである。
ところが1920年代に次々に閉鎖された。度量なるウィスキーへの課税に因って規模の小さいキヤンベルタウンの蒸留所が耐えられなかった事や禁酒法によってアメリカという大きな消費地を失うといった不運もあったまた一部の心ない蒸留所が粗製濫造に走ったこともキヤンベルタウン離れを進めた1934年にリーク
ラッハン蒸留所が閉鎖された後は、グレンスコシアとスプリングバンクだけと
なってしまった。
 そういえばこの町もかつて漁で栄えたという。1920年(大正9年)竹鶴政孝は
新妻リタと共にキヤンベルタウンのへ−ゼルバーン蒸留所へ実習に赴いた
当時、この蒸留所はホワイトホースのモルトを生産していたが、1925年には閉鎖
されている。

モルトウィスキーの5つの工程とスプリングバンクの特徴を挙げてみよう。
1.モルトつくり-------フロアーモルティングへの固執。
2.糖化---------------古いオープンスタイルのマッシュタンの使用。
3.発酵---------------伝統的なカラ松のウオッシュバックによる72時間発酵。
4.蒸留---------------贅沢な2回半蒸留による滑らかさ。
5.熟成---------------1828年の創業当時からの数少ない独立資本の蒸留所で
あること。ボトリング設備をもち自社内で瓶詰めするので仕込み水で加水できる、
よって46度の高さにこだわりをもつ。こうした特徴こそスプリングバンクならでは
のものである。

 次なる目的地はアイランズである。
キンタイア半島を30マイル程北上するとケナクレイグというフェリーポートがある。カレドニアンマクグレイン号で2時間ポートアスキングに着く
ここがアイレイ島である。
 島々のなかでも、アイレイ島は質量ともに突出している敢えて3つの地区にわけると繊細の北ブナヘーベン蒸留所。
中庸のボウモア。強烈のアドベッグ、ラガプリンラフロイグを産み出す南の
ポートエレン地区。
アスキング港から車で20分、島の北東へ、小さな曲がりくねった小径を行くと、
海沿いに村落がみえるブナヘーベンである“ウェスタリングホーム“(故郷への
西行き)とのラベルは島への強い愛情をうったえている。ウエアハウス(保税倉庫)
の奥には、海に面したゲストハウスがみえる。派手さはないが、素朴の中の洗練。
ほの暗い工場のエシャロットのようなコパー(銅)の輝き。美しいアランビックで
ある。
 位置的にも性格的にも中間にあるのが南西に7.8マイル先のボウモアといえる。
事前の予約もないのにじつに親切なガイドである伝統のフロアーモルティング
が守られているウエアハウスの一部までみせて頂くがなんとそこにはKSAJI
ときざまれた樽が置かれていた。1994年からサントリーの所有になっていた
 ピートの切りだされた跡を見てしばらく南下すると、ポートエレンの町に
辿り着く。A846の終点まで行くとアドベッグ蒸留所がある隣のラガプリンの
白い壁がまぶしいなめらかでヨード臭があって潮のかおりもする。強い主張、
ピーティ、スモーキー。しかも、すばらしいバランスである。これが、ホワイト
ホースの原酒なのか。
その隣がラフロイグである。7基のポットスチルが、うつくしく並ぶしっかりと
甘い香りが漂う。やはりウィスキーの極北である塩っぽい薬臭いなどと言う
向きもあるが、一度味わうと止められない、個性と言うべきである。

 我々の旅行はこの後もオーバン蒸留所&ゴルフとかクリフゴルフクラブ&パブとかゴルフ&ウィスキーで明け暮れれる日々が1週間程続いた。しかし帰国して
1ヵ月たった今、一番思い出すのはキンタイア半島である。それは我々が人一倍ゴルフやウィスキーに興味があったという理由だけでなく物事の源流をさかのぼってゆけばそこに先人達の努力や勇気哀しみや晴れがましさを感じるからに他ならない。それらが大きなうねりとなって歴史を創っているように考えがちであるがその場所に立って考えて見れば逆に歴史に飲み込まれてしまった々も、場所もある事に気付くことになる。
150年前のキンタイア半島と全英オープンがそれを教えてくれる。それはまた
セントアンドリューズやカーヌスティー近辺のいわば地方的な遊びであった
ゴルフ数百年たって18世紀半ば突然他の地域に伝播したかを理解するこでも
ある。それには背後にどんな時代背景があり、どんな人とどんな力が働いたかを
考えるべきである。

 逸早く産業革命を成し遂げ、未曾有の繁栄期にあった1850年から1870年までの
英国にあってこれといって地場産業を持たないスコットランド東海岸に較べて、
グラスゴー近郊では造船とウィスキーという二大成長産業つまり金のなる木を
持っていたその潤沢な資金力をバックにセントアンドリューズからトムモリス
親子を呼び寄せてプレストウィックのグリーンキーパーにしさらに全英オープン
(ザベルト)を開催したのだった初めはゴルフ大国セントアンドリューズ近辺の
スコットランド東海岸に対して新しく台頭してきたスコットランド西海岸の
エキビジションマッチという色彩であったらしい。
トム・モリス親子にとっても数年間のプレストウィック暮しは有益なものだった。
1860年から1870年までの11年間プレストウィックだけで開催された全英オープン
(ザベルト)の間、トム・モリス親子が7回優勝している事から見ても地元の利が
大きかった事がわかる。
スコットランド西海岸ではこの全英オープンに刺激されたのか次々と名コースが
誕生してゆく。プレストウィック(1851)、トゥルーン(1878)、イルバイン(1887)、
そして最初に紹介したマクリハニッシュ(1876)などである。
 この時期以降セントアンドリューズに代表されるスコットランド東海岸の
エジンバラ近郊のリンクスでしかプレーされることのなかったゴルフは南下を
始め、綿製品の貿易や奴隷売買で栄えていたマンチェスターやリバプール近郊に
ホイレーク(1869)、リザム&セントアンズ(1886)、バークデール(1889)、さらに
ロンドン近郊にウィンブルドン(1865)、サンドウィッチ(1887)などが次々と開場
してゆくのである。また英国内に止まらずゴルフというスポーツは世界中に
愛好者を増やしてゆくことになった。

 しかし、そのきっかけを創ったはずのキンタイア半島のウィスキー産業はその活力をハイランドのスペイサイドに奪われ今死んでゆこうとしているのだ。何という悲運。何という歴史の残酷さか。この荒廃もリンクしていたというのだろうか。

ゴルフを世界中に広めるきっかけとなったキンタイア半島に向かってスランジ
                                (乾杯)!