1月 TPCソーグラス(米国) TPC AT SAWGRASS(1981開場)
ピート・ダイ(1925−)Pete Dye
池に浮かぶグリーンの構想は、過去に幾つもあったが、実現したのはこのホールが
最初。オールorナッシングという過激な戦略性の是非を巡って現代でも評価の
別れるホール。140y内外という距離が成立性の鍵を握る。
スコットランド回帰を標榜するピート・ダイの設計スタイルは、小さなグリーン、
うねったフェアウエー、ポットバンカー、枕木、粗暴なラフという5つのキーワード
を使って説明される事が多い。しかしそれは単なる過去の焼き直しではなく、
少なくとも80年代の米国商業主義においては、テレビ映りの問題や観客席の安価
な常設方法などの点で合理的かつ衝撃的な意味を持っていた。
彼はハーバータウンやスタジアムコースの原型たるソーグラス設計後、幾度かスタ
イルを変えながら2人の息子やトム・ドークなどの若手を1人立ちさせ、世界中に
コース設計ファンを増やした。
2月 パインバレーゴルフクラブ(米国) PINE VALLEY GOLF CLUB
ジョージ・クランプ(1871-1918)George Arthur Crump
ホテルオーナーだったジョージ・クランプは、新妻の死後ホテルを売却し、私財を
全てつぎ込んで彼の理想とするコースを故郷フィラデルフィアに造る事に情熱を
傾けた。現在でも此処は科罰型設計の手本とされている。
ジョージ・クランプは1913年からパインバレーの建設現場に住み込み1918年に突然
の死を迎えるが、存命中から多くの著名設計家から意見を聞き、コースは彼の
遺志を継いだ設計家達の手で完成する。
この厳格な設計思想を共有した彼らをフィラデルフィア派と呼び、HSコルト、CHアリ
ソン、Wトラビス、AWティリングハースト、ヒュー・ウィルソン、ウィリアム・フリン
など米国のコース設計史の中で燦然と輝く設計家達が名を連ねる。
パインバレーは、米国のコース設計が英国の模倣一辺倒から脱却して、新たな
可能性を模索し始めた記念碑であり、現在でも目標となる作品である。
3月 バルデラマ RTジョーンズ(1906-2000?) R. T. JONES
RTジョーンズは1930年にスタンレー・トンプソンと共同で仕事を始めたが後に
独立し、世界で最も有名な設計家となった。1990年には世界中で450コース以上を
設計し、年間30万マイルも飛行機に乗っていたそうだ。コースの戦略性の議論の
中で英雄型と呼ばれる手法がある事は、彼の登場以前から指摘されていた。
しかし60年代後半から、ロバート・トレント・ジョーンズは斜めに配した水面を
使って、米国人の気質に合うギャンブル性を取り入れ、強打者に有利なホールを
具現化し続けた。広く平らなフェアウエーと縦長で大きなティーインググラウンドは、
瞬く間に米国の標準解となって世界中に広まった。
飛行場のようだと批判される時もあるが、乗用芝刈り機を効率良く使用するため
管理コストが安く、スプリンクラーヘッドの数も最小限で済むなど、大衆的な
コースではメリットが大きい。
4月 ストークポージスゴルフクラブ(イングランド) STORKPOGESGOLFCLUB
チャールズ・ヒュー・アリソン(1882−1952) C. H. Alison
サブ写真(迫田提供)
007ゴールドフィンガーの舞台にもなったクラブハウスは、元々マナーハウスで
あった。コースはHSコルトとCHアリソンの共作だが、初代支配人がアリソンで
ある事から、彼の影響が強いものと思われる。
ストークポージスの会場当時、HSコルト、CHアリソン、A.マッケンジーの3人は、
世界初のゴルフコース設計専門の事務所を共同で営んでおり、互いに親交があった。
写真の7番はオーガスタナショナルの12番の原型とされるホールで、間口が狭く
奥行きの深いグリーンを斜めに配置し、手前に川を流す構成や、150yの距離など
類似点が多い。
オーガスタの原設計ではOUTとINが現在の逆で、12番は3番として計画されており、
双方の緯度の違いを勘案すると、ほぼ同じ高さの太陽高度からの逆光を浴びながら
ショットする事になる。設計家は透過光の美しさを表現したかったのだ。
5月 PGAウエスト 二クラウスコース PGAWEST
ジャック・二クラス(1940−)Jack Nicklaus
オハイオの怪童と呼ばれた学生時代から帝王と呼ばれるまで、常にゴルフ界の
トップを走り続けてきたニクラウスは、コース設計の分野でも最高しか求めない。
現代のバベルの塔になる危険を孕みながら円熟期を迎えた。
自分で図面を描く時間の無いニクラウスは、常に優秀なスタッフを集めていた。
最初はピート・ダイやデスモンド・ミュアヘッドと共同で設計していたし、1974年
に独立してからも入学者や卒業生が多い事も含めて二クラウス学校と呼ばれている。
彼の設計は典型的なピンポイント設計で、着地してからのランを殆ど見込まず
高弾道が有利である。
設計料が非常識なほど高い事や、理想を追求する余り土木施工量が大きい事。
下手なプレーヤーに対する配慮が足らない事や、稀に水面の見えない池を作る事
などの欠点も指摘されるが、彼の名声による集客力と見合う限り設計依頼は
絶えない。
6月 パインハーストリゾート&カントリークラブ(米国)
PINEHURSTRESORT & COUNTRYCLUB
ドナルド・ロス(1872−1948)Donald J. Ross
北スコットランドのドーノックから無一文で米国に渡ったロスは、程なく終の棲家
となるパインハーストに落ち着き、トーナメントプロ、ゴルフ場設計家、ゴルフ
用品の宣伝広告塔と、次々とゴルフビジネスを創出した。
石工の息子だったロスは、幼い時からドーノックのゴルフ場で下働きをしていたが、
セント・アンドリュースで数年間クラブプロになるための修行をした後米国に渡り、
時流に乗って富と名声を得る事に成功したが、彼自身は生涯パインハーストに
住み続けNo2コースの熟成に情熱を傾けた。
米国ゴルフ場設計家協会の創立メンバーでもあるドナルド・ロスのコース設計上
の特徴は4つ。
1.饅頭型で砲台になったグリーンが多い。
2.バンカーの顎が高く、切り立っている。
3.グリーンへの花道が設計者の意図を示す。
4.グリーン奥に見えないバンカーは作らない。
7月 サイプレスポイント(米国) CYPRESSPOINTCLUB
アリスター・マッケンジー(1870−1934) Dr. AlisterMackenzie
コース設計における米国のゴールドラッシュは、Dr. A.マッケンジーが西海岸に
上陸した時に始まった。彼は南半球での経験から、リンクスの代わりに海岸線を
主役にして近代コース設計の金字塔を打ち立てたのだ。北イングランドのリーズ
出身で、ケンブリッジ大学で薬学を学ぶが卒業したかどうかは不明である。
ボーア戦争に従軍医師として参加したためDr.と呼ばれるが、隊は南アフリカで
土人達のゲリラ戦に悩まされ、彼は独自に戦闘時におけるカモフラージュ技法に
ついて研究する。ロンドンに帰還し陸軍士官学校の講師として職を得るが、彼の
唱えるカモフラージュ技法は前衛的すぎて受け入れられず、失意のまま故郷に
帰り医者となる。この技法がコース設計に応用できると確信した彼は、強引に地元
アルウッドリーのGCの設計をした後、米国に渡ってその才能を一気に開花させる。
8月 バルタスロール写真(米国) Baltasrol Golf Club(1922)
アルバート・ティリングハースト(1874-1942)A. W. Tillinghast
サブ図版(迫田提供)1エーカーの地獄絵図
AWティリングハーストは存命中から「恐怖のティリング」と異名をとった強烈な
キャラクターの持ち主。破天荒な人生経験と才能を併せ持ったフィラデルフィア
派の中核で、バーディー(パーより1打少い)の名付け親。
A.W. ティリングハーストはフィラデルフィアの裕福な家庭に育ちながら不良少年
の仲間に入っていたが、20歳を境に完全に更正し妻を娶って仕事に打ち込み
美術品の収集や小説を出版していた。
スコットランドに旅した時ゴルフに目覚め、毎年のようにトム・モリスに直接
指導を受け、コース設計にも興味を持ち始め32歳の時には知人の農場をゴルフ
コースにしてしまうほど設計に熱中した。
ウイングフットやバルタスロールなどコースの出来栄えは素晴らしく、その結果
彼は億万長者となってマンハッタン事務所を構え、銀行頭取のような立派な服装
で設計をしていたと伝えられている。
9月 プレストウィックゴルフクラブ(スコットランド)PRESTWICK GOLF CLUB
トム・モリス(1821−1908)Old Tom Morris
初めてのジ・オープンがこのコースで開催されたのは1860年。当時は優勝カップ
ではなくモロッコ革製のベルトの争奪戦だった。当時は互いに交差する12ホール
しかなく、3ラウンド回って36ホールでの競技だった。
エジンバラの北にあるセント・アンドリュース生まれのトム・モリス親子が、グラス
ゴーの西にあるプレストウィックに来たのは1851年で、理由は先輩のA.ロバート
ソンとガッティーボールの使用についてもめた事が原因だと伝えられている。
1965年にR&Aのグリーンキーパーとして戻り1908年に没するまでセント・アンド
リュースで暮らすが、その間にOldコースを現在と同じ反時計回りにし、18ホール
で1ラウンドと定め、Newコースを作るなど精力的にコースを整備した。またスコット
ランド中に招かれて旅をし、各地にコースを作りながらゴルフを広める事に尽力した。
10月 大原御宿 Ooharaonnzyuku
井上誠一(1908−1981)Seiichi Inoue
サブ写真(山田兼道氏提供)
バンカーの淵まで柔らかな曲線が連続し、フェアウエーが周りの景色に溶け込んで
しまっている。借景を含め日本的な風情を現出させる事に情熱を注ぎ、現代に
おいても日本で最も著名な設計家。日本的曲線美の極致。
井上誠一は眼科医の子息として何不自由なく幼年時代を過すが高校時代に大病を
患い、療養に行った静岡県川奈でCHアリソンを目にする。その後アリソンの助手
だったG・ペングレースと共に霞ケ関CCの改造現場に立会い、当時世界最新の施工
方法や設計技術に触れ、自らもコース設計家を目指す決心をしたと言われている。
井上誠一氏のコース設計の特徴は、用地選定に慎重で施主にも厳格な態度を貫く
一方、コースは柔らかな曲線によって構成し女性的だと評される。2グリーンシス
テムやガードバンカーがグリーンから離れすぎ等の批判もある、が日本的である。
11月 下関ゴルフ倶楽部(日本) Shimonoseki Golf Club
上田治(1907−1978) Osamu Ueda
写真の山口県の下関GCを始め、茨城GC、広島CC八本松、福岡県古賀CCなど西日本を
中心に50を超すコースを造った上田治氏の原点は兵庫県廣野ゴルフ倶楽部にある。
土木や造園の知識を総動員したプロの仕事人。
上田治氏は京都大学で林業を学び、卒業直後その造園の知識を買われて、CHアリソン
が設計した廣野ゴルフ倶楽部の造成工事に助手として参加する。
コース完成後も廣野に残り、1940年から1954年までは支配人として戦後の復興に
あたった。独立後の仕事も、山が険しく多くの土木工事を必要とする関西が
多かったため「東の井上、西の上田」と並び称される。繊細な曲線美を持ち味と
した井上に対し、豪放で男性的なイメージを持たれるが、それは砲台グリーンを
持つPar3が必ず登場する事と、重機を使った土木工事を多用したために受ける
印象で、基本は廣野で培った英国風である。
12月 サニングデールSunnigdale Golf Club(1900)
ウィリーパークJr. & HSコルトWilie Park Jnr(old)& H.S.Colt
(1864-1925)(1869-1951)サニングデール(Old)Sunnigdale(1901,new1922)
トーナメント会場になる事の多いサニングデールOldコースは1901年にウィリー
パークJr.がデザインしたものだが、同年から1913年までの初代支配人はHSコルト
で、氏は1922年にNewコースをデザインしている。
スコットランドのマッセルバラで育ったウィリーパークJr.は、ウィリー・ダン
らと同じ黎明期のプロゴルファー一家の出身で、各地でエキジビジョンマッチを
興行しながらコース設計にも才能を発揮した。ホールをレイアウトすると言う
考え方は、リンクスコース時代は無く初めて彼が取り入れた。
HSコルトはケンブリッジ大学で法学を学びながら、当時英国最強のゴルフ部を
率いて海外遠征もこなしていた。1894年には法律の知識を活かしてライGCを立ち
上げると、満を持してサニングデールの支配人に就任し倶楽部運営に当たる一方、
ロンドン郊外の高級住宅地に次々と珠玉の名作を残す。
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