株式会社キャトルキャー ゴルフコース設計家 迫田耕(さこたこう)
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 週刊ゴルフダイジェスト(2) 2004年6月18日  出版社:ゴルフダイジェスト社

1.100年前のゴルフ
(全英オーペンに向けて、ゴルフの歴史総まくり)
15世紀にはコルフと呼ばれていたゴルフ創世期の服装は、現存する資料では赤い
ジャケットを纏っているものが多いが、それは貧乏な羊飼いの肖像画を描く人が
当時いなかったせいだろう。後の資料ではコモンランドでゴルフをする時は
猟師に鹿と間違えて撃たれないように、ゴルファーは赤い目印を付けていたようで、
その名残が現在でもウインブルドンコモンなどに残っている。

大英帝国陸軍がインドに駐屯していた時代、余りの暑さと軍隊としての規律の
妥協点として半ズボンとハイソックスの組み合わせが軍服として採用され、後に
英国内では帰還兵を真似たリゾートファッションとして定着した今でも夏になる
と日本ではその是非について議論になるから面白い。

同じ頃英国内で行われていたスポーツの中でゴルフより金満的なものに乗馬から
発展したポロがあり、当時のゴルファーはその活動的な服装に憧れてポロシャツ
を着るようになった。それまではYシャツとネクタイ姿にニッカーボッカー
プレーしていたのだから、随分と身軽になったものだ。

初期の王室は別として女性がゴルフ場に現れたのは彼女達が社会進出を果
産業革命以降の事であるが、似非貴族趣味なアングロサクソン男性の気質からか、
その後の展開は目覚しい。女性は強くなり続け、英国では家族会員などでは飽き
足らず、女性専用のコースを持った倶楽部組織も多数存在し、21世紀はへそ出し
ルックまで登場した。

今週全英オープンが行われるリンクスランドは元々起伏がありすぎて、通常の農耕地には向かなかったので羊の放牧などに細々と利用されてきたが、そこでゴルフが行われるようになった時に最初にプレーの障害物となったのは、深いラフとバンカーだった写真のように草に覆われた大きなマウンドが崩れて砂が剥き出しになった物が原始的な
バンカーでその後この砂地獄はゴルフのハザードとして特殊な発展を遂げる。

20世紀初頭の帝国主義から第一次世界大戦にかけて、英国陸軍の主な戦法は塹壕
(トレンチもしくはバンカー)戦であった。何処に塹壕を掘ればよいかという軍事
的な戦略と、ゴルフのハザードを何処に配置するかという問題は、当時の軍人や
知識階層にとて共通点が見つけ易く話題になった事は想像に難くないゴルフ
コースが海辺のリンクスランドを離れて大都市近郊の内陸部に建設されるように
なるとハザードの戦略性が盛んに議論されるようになり1910年頃遂にハザー
としての人工池も出現した。

これら知的ゲームの要素を取り入れた人為的なハザードは第二次大戦後米国
渡って更に過激になり、1970年代には池の淵に横たわるフェアウエーと広大
サンドピットを持つ平板なバンカーという米国スタイルを確立するに至った。
一方、古いリンクスコースではゴルフは自然と対峙するゲームという伝統を
頑なに守り続け近年までコースを改修することはある意味でタブー視されてきた。
バンカーで言えば、セント・アンドリュースでは200年前に1つだけ埋めたのが
最新の記録であるが、その代り球の良く入るバンカーは抉られて更に深くなって
きた。

コースの戦略性を高めるためと称して、プレーヤーの飛距離に呼応して配置を
見直される事の多い現代のハザード基本的に強打者に有利で本来のゲーム性を
失い大多数の倶楽部プレーヤーにとって不利益になりつつあるラフのあり方を
も含め、真の戦略性の議論が日本を含めた世界中で湧き上がってくる事を期待
したい。

写真キャプション
00 未開発のリンクスに点在するバンカーの原型
風雨にさらされて崩れかけたマウンドから、地中の砂が剥き出しになっている。
画一的なバンカーエッジを見慣れたゴルファーも、この自然の造形を賛美して
欲しい。

02 プレストウィックのカーディナル
全英オープンの最初の10年が連続して開催されたプレストウィックは、当時12
ホールで構成され3回廻って36ホールのプレーとしていた。現在カーディナルと
呼ばれているホールにある写真のハザードは、当時のグリーン跡である。

03 変なバンカー
今は廃れてしまったヴィクトリア時代の典型的なハザード配置グリーンの手前
に土塁を築き、その手前に平板なバンカーを配置する奇妙な流行の産物。

04 ラフ
牧羊に適した芝は麦の1種で、自然に育つと1mほどの高さになる球が見つかった
としても脱出するのも困難だが、当時の球は現在よりも相対的に高価であり
必死で球捜しをしたらしい。

05 塹壕
第一次世界大戦での英国軍の塹壕戦はトレンチコートと共に記憶されているが、
同時にカモフラージュ技法なども軍内部で議論されていた。

12 スープボール
枕木で補強され、その形状から巨大なスープボールとあだ名された100年前の
バンカー。コース設計家の父と呼ばれるH.S.コルト氏の出世作。

19世紀中ごろまでは、セント・アンドリュースを中心とするスコットランド東海
岸がゴルフを牽引し、その激しく右にスエーしながらクラブを担ぎ上げ、手首を
使って低いパンチショットを繰り出すスイングが一般的であった。20世紀初頭の
3巨頭時代に南部のジャージー島からハリー・バートンが現れて一世を風靡し、
古いタイプのスコットランドのゴルフプロを米国に追いやった。

1920年代以降は、米国人が世界のゴルフ界に君臨するようになり、アマチュアの
ボビージョーンズがグランドスラムを達成したヒッコリーシャフトに代わ
登場した米国のスチールシャフトも飛距離増大を即し、60年代のパーマーなどの
人気者を輩出した。別荘地開発と連動した池を多用したデザインがピンポイント
を結ぶようなターゲットゴルフの要求を生み70年代以降はジャックニクラウス
のような高い弾道の打てるスイングが憧れだった。欧州から米国ツアーに参戦し、
勝利を収める事の出来る若者が育ち始め、80年代から欧州大陸でゴルフブームが
沸き起こった。

写真キャプション
トム・モリス(1821-1908)
アラン・ロバートソンに次いで2人目のプロゴルファー、兼クラブメーカー、兼
グリーンキーパー、
権コース設計者。近代ゴルフの父と呼ばれ、親子合わせて
オープン優勝8回


ハリー・バートン(1870-1937)
19世紀末から20世紀初頭のゴルフ界を、ジェームス・ブレイドとJ.H.テーラーと
共に20年間にわたり席巻した3巨頭の一人。アップライトなスイングとオーバー
ラッピィンググリップの開発者。

ボビー・ジョーンズ(1902-1971)
生涯ジェントルマンゴルファーを貫いた球聖。現役時代はヒッコリーシャフトの
終焉期でカラミテージェーンと呼ばれたパターを使用マスターズトーナメント
の生みの親。

アーノルド・パーマー(1929- )
米国のテレビ普及に伴って登場した、男らしくて泥臭くさいアメリカンヒーロー。
攻撃的なゴルフを身上とし、観衆を魅了し続けたゴルフの大衆化の立役者。

ジャック・ニクラウス(1940- )
オハイオのデブと呼ばれた彼が後に帝王の称号を得られた理由は、彼の持つ
飛距離と高い弾道にあった池を多用した英雄型(ヒロイックタイプ)のコースでは
特に有効であった。

牧歌的な石ころの次に登場したのが、ガチョウの羽を革袋に詰めたフェザリー
ボールである弓職人から転職したクラブメーカーが美しさを競ったロングノーズ
は、ゴムを原料にしたガタバチャ−ボールが1848年に開発されると、その衝撃
耐え切れず次々と破損し、ウッドクラブはパーシモンを使った大型に発展する。
一方ボールも1850年代には経験則に照らし空気抵抗と揚力をバランスさせるため
の色々な表面加工が行われるようになった。色々なライへの適応性からアイアン
クラブも登場したがゴルファーの携行本数は8本程度だった。尚ヘッドカバ
道具を大切にしてきた古き善き時代の日本人の英国駐在員の発明である。

写真キャプション
ゴルファーの悔しい思いの数だけ存在した珍品クラブの数々。
水の抵抗を少なくしようと櫛形に作られた水切りショット用のクラブ。
車輪でできた轍の跡や、兎の巣穴にボールが入った時の脱出用クラブ。
他にも長さが変わる物やラウンド中にロフトを調整できるアイアン中央が抉れた
フェース、トンカチそっくりなパターなど、何れも今では違反クラブだ


2.写真キャプション集
1番(12*5)
ノース・バーウィックで、所属プロ兼クラブメーカーのベン・セイヤーが、
バンカー顎近くに埋もれた自打球に果てている。(1895年)

2番(15*4)
R&Aの建物が増築途中の、20世紀初頭のセント・アンドリュース
1番グリーンの右側に現在も残るレディースパッティンググリーン

12番(37)
リンクスコースと海岸線の相互関係が良く判る現在のミュアフールドの鳥瞰写真

16番(19)
オーガスタナショナルGCの16番Par3

25番(33)
今年全英を開催するロイヤル・トゥルーンに残る19世紀のクラブセット

26.27番(14*5)
フェザリーボールは大きさも重さもまちまちだが大変高価で貴重品だった
ウッドクラブは、現代の標準から見ると大変フラットなライ角度でビックリ

28.29番(14*5)
アイアンクラブは18世紀中期から携行され始めたが19世紀中期にガタバチャ−
ボールが開発されると、用途が広がり本数も増えていった。